皇居の東側、東京駅に隣接して広がる中央区の街。
銀座をはじめ日本一の繁華街として知られているこの街々も、
天正18年(1590)徳川家康が江戸へ入城した頃はほとんどが葦の生えた潮の浜でした。
まず江戸城と外堀内の整備が行われ、慶長8年(1603)江戸幕府開幕とともに江戸の町割が始まりました。
神田山(駿河台)の土を掘りくずして豊島の洲崎が埋め立てられ、
浜町の辺りから南新橋に至る隅田川に沿った一帯ができあがっていきました。
日本橋、京橋などの町人地は慶長10年頃には完成したようです。
なお、大江戸造成にかかる膨大な労働力は、日本全国の諸大名がお手伝い普請を命ぜられて供出したといいます。
明治になると新政府は中央政治機構の改革とともに町政の改革を急ピッチで進め、
明治11年(1878年)、郡区町村編成法の施行に伴い、
東京府内に麹町、日本橋、京橋、芝、麻布など15区が置かれました。
日本橋区、京橋区はここに成立し、これより中央区として合併するまで約70年間、2区の時代が続きます。
東京市は明治22年(1889年)に東京府から独立しましたが、これが有名無実。
府知事が市長を兼ね、市庁舎もなく、市の役人もいないという有様でした。
本当の意味での自治制が確立されのは、それから9年後の明治31年(1898年)で、
この時初めて麹町区有楽町2丁目の東京府庁舎内に市役所が開設されました。
大正12年(1923年)9月に起こった関東大震災、
中央区においても、日本橋地区は全滅、京橋地区も80%まで焼失という大惨事となりました。
日本橋の魚河岸は築地に移転し、復興事業で昭和通りなど新たな道路ができ、
松坂屋、松屋、三越などのデパートが銀座にいっせいに進出します。
カフェ、バーなども一層賑わって「銀ブラ」という言葉が生まれ、
昭和5年(1930年)以降になるとモガ、モボが洒落たスタイルで街を闊歩する姿が見られるようになりました。
ダンスホールや喫茶店が人気を呼んだのもこの頃です。
しかし、こうした繁栄も戦時色が濃くなるにつれて下火となり、
昭和20年(1945年)の東京大空襲で、東京はビルのコンクリートの破片が重なる瓦礫の街と化したのです。
銀座、日本橋の復興は急ピッチで進められ、東京は23区制となり、
京橋区と日本橋区の地域を合わせて現在の中央区が誕生しました。
昭和26年(1951年)頃に新生中央区が日本の経済、文化の中心として復興し、
昭和30年代には、相次いでビルが建設されビルラッシュが訪れます。
さらに東京オリンピック前後には河川が埋め立てられ、
頭上には高速道路、足元には地下鉄の走る新しい都市景観が生まれていきました。